稀勢の里

日本人の多くの人々が感動を覚えた春場所だった。
13日目の日馬富士戦で左肩を痛めた稀勢の里は、誰もが休場と思った。しかし、14日の鶴竜戦に出場したが、相撲にならず2敗を喫するのである。
その時点で照ノ富士の優勝が決定的になり、相撲ファンは落胆した。
ゴルフが終わり車のエンジンをかけ、20~30分走った所で、てっきり照ノ富士が優勝していると思ったが、ラジオのスイッチを入れてみた。雑音で聞き取りにくかったが、どうやら優勝決定戦を今から行うような雰囲気だった。
ということは、本割で稀勢の里が照ノ富士に勝ったのである。
果たして決定戦で稀勢の里が勝ち賜杯を手にした。
稀勢の里の気持ちとか根性とかは当然称賛に値し、これからも起こりそうにもない奇跡を起こしたことは間違いのないところである。
私はこう考える。
こういう結果をもたらしたのは照ノ富士にあると。
何故か?14日の、《照ノ富士》《琴奨菊》戦に起因している。勝負に拘り照ノ富士は大きく変化し、琴奨菊を土俵に転がしたのである。それも真剣な形相をしながら、一度先に琴奨菊に突っかかったのである。相手を油断させ、計算し尽くした取り組みだった。勝つための作戦と言えばそれまでだが、その精神的貧困が敗因である。
片や稀勢の里の崇高さが勝利を生み、日本中を震撼させたのである。
19年ぶりに誕生した日本人横綱稀勢の里が、一時代を築いてくれることを祈っている。

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WBC総括

本当に総括が好きである。
今回のWBCは称賛に値する。前回とは比較にならないほど素晴らしい試合内容だった。
小久保監督の采配ミスもほとんどなかったし、投手の継投も過ちは見受けられなかった。
では何故、優勝できなかったか?となると、一言でいえば地力が足らなかった、に尽きる。
特に打撃陣は完全に力不足・技術不足を認めざるを得ない。
走・攻・守というが、走と守に関しては世界に通用するレベルであるが、攻についてはパワーとテクニックをもっと身につけないと、4年後もおぼつかない。
それと、勝負の展開において、予選準決勝リーグを通じて、一度も敗戦を経験しなかったことが、却って災いしたかもしれない。一敗くらいしていたほうがよかった気がする。すべて勝ち続けなければならない難しさがあったかもしれない。
活躍した主だった選手を列挙してみる。
投手では、菅野・千賀・増井・平野・秋谷・牧田
野手では、菊池・筒香・小林・山田・中田
期待外れは、鈴木・藤浪・青木・平田・田中・則本・松井・武田・石川
お疲れさまでした、と拍手を送りたい。

もうすぐペナントレースが始まる。突出したチームは見当たらないが、今年も阪神の優勝はなさそうである。どうも糸井にかき回されそうである。野球は個人プレーの要素は大きいが、最後は選手も人間であるから、チームプレーである。
金本はどんなチームにしたいのか、まるで見えてこない。
7月には塾のゲスト講師として、元阪神タイガースの岡田監督に来ていただくことになっている。そのときにほぼ全容が見通せると思う。楽しみである。

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たかが散髪、されど散髪

先日一枚のはがきが舞い込んできた。
半世紀近く通った散髪屋からだった。店主の健康上の理由で閉店するという内容である。
そもそもその散髪屋に通い始めたのは、私が第一線で営業活動をしていたころに、店舗の改装を請け負ったことに起因する。
これまでに三回だけ他の理髪店に行ったことがある。一回はパナホーム兵庫の社長時代に建てていただいたお客様のお店、、もう一回は三年くらい前、その行きつけの店主が怪我で3週間ほど休業したとき、今一回は、今回店に行くと休業の張り紙がしてあったので近くの理髪店に行った。
散髪屋の醍醐味は、何と言っても椅子に座るだけで、余計な会話が不必要なところにある。過去三回とも借りてきた猫のごとく居心地が悪く、時間が長く感じた。
店主は私と同じく団塊の世代を生き、お父さんの後を継いだ後、さまざまな工夫や研究を重ね、若者たちにも人気があった。
理髪店ではなく新たに散髪屋を捜さねばならない。それを思うだけでも憂鬱になる。

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熱血弁護士松陰を語る

3月14日の講座は再度三浦弁護士にお願いした。
彼は山口県の教育委員会からわざわざ《松陰読本》という小雑誌を取り寄せ、塾生に配布していただいた。
山口県ではこの《松陰読本》は、昭和55年に松陰生誕150年を記念して刊行され、山口県下の小学校では教材として用いられている。
松陰は数々の名言・格言を残しているが、その中で最も有名な言葉の一つが『至誠而不動者未之有也』である。「至誠にして動かざる者は未だこれあらざるなり」と読み、意味は「人はまごころをもってすればどんなものでも感動しないものはない」である。
松陰は全国を自分の足で見て回り、今日本にとって一番重要で急がなければならないことを実感し、長州藩を始め多くの人々に説いて回った。身分制度を廃止し、人間が平等で豊かな暮らしを実現しなければならないと。
彼の考えは崇高だったが、あの時代に受け入れられる人々は限られていた。
私は、松陰は近代国家をこじ開けたと思っている。幕末の時代、国家論を抱いた人物は「松陰」「勝海舟」「坂本龍馬」の三人だった。西郷を始め維新の重鎮たちは、国家のため、というより自分たちの藩のためという意識しかなかった。
松下村塾での活動は2年足らずであったが、特出した塾生に久坂玄瑞、高杉晋作の二人がいるが、二人とも若くして命を落とした。久坂玄瑞は禁門の変で、高杉は病のため。
松陰は30歳を待たずして刑場の露に消えるのであるが、私論を言えば、そんなに焦らずもう少し狡く立ち回っていたら、また違った日本が誕生していたと思う。かれはあまりに純粋であり過ぎた感がする。
ともあれ彼の功績で、近代国家への道は20~30年早まったことは確かである。

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お水取り

正式には修二会という。
奈良東大寺の二月堂で、毎年3月1日から14日まで執り行われている。今年で1266回を数えるが、その間一度も途絶えたことがない。
ご本尊である『十一面観音』(秘仏であるため開帳はされることはない)が奉られた本堂の中、昨年選ばれた11名の練行衆が唱える五体投地という最も荘厳なお祈りの中、杉球にくるまれた赤々と燃え盛る大松明が、お堂の欄干を駆け抜けて行く。
その度ごとに訪れた観客たちは、ため息とも嬌声ともとれる歓声が沸き上がる。
降り注ぐ火の粉を浴びると、その一年間無病息災で過ごせると言われている。
お水取りは明日いよいよ最終日を迎える。今年は行く事は叶わなかったが、過去に3度程訪れている。
もともとは《五穀豊穣》を願う祭祀であったが、近年は《世界平和》を祈願している。

  二月堂
    夜空を焦がす 大松明
    世界に届け 平和の祈り(拙作)

来年は久々に訪れたくなった・・・

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普通のラーメン屋

現在の場所に移転する以前からだから、かれこれ四半世紀になると思う。
なんの変哲もない「普通のラーメン屋」に行きだしたのは。屋号は知らないが、博多ラーメンの暖簾を上げているから、そのチェーン店であると思われる。
概ね夫婦と娘、三人で切り盛りしており、時々店員を雇っているようだが、長続きしなくていつの間にかいなくなっている。
店主はとぼけた、一見鈍間そうだが、どうしてなかなか手早く、混んでいても待たせるということはほとんどない。奥様の話によると趣味は、あまり的中しない競馬と下手なボーリングらしい。カウンター越しに時々競馬の話をするが、馬券を取ったときのみしゃべってくるのか、たまにはゲットしているようだ。
奥様は飾らない人柄で、私には主人の愚痴を言う。私の服装を褒めてくれる、いい奥様である。
娘は淡々と業務をこなしている。愛想はないが、嫌みもない。三十前後と思われるが、化粧家のない素顔は年齢より若く見える。笑顔を見たことがなく、たまには笑って、と言いたくなる。
私はこの店でオーダーする必要がない。ラーメンとご飯は極小、餃子は4個。〆て900円。月に2~3度訪れる。私が持参したカレンダーが店の片隅に掲げてある。
この店の売りは《高菜》と《三人の意気》である。

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砂時計

一週間くらい前から、使用していた砂時計が見当たらない。
多少思い入れのある砂時計だった。洗面台の下や、洗濯籠の辺りをかなり入念に捜したが見つからない。二日間ほど執念深く捜したがやはりない。
諦めて以前買い求めたお店に立ち寄り店員に
「砂時計ありますか?」と尋ねたところ、
「申し訳ありませんが取り扱っていません」
「何年か前にここで買ったのですが」
「はい、当時はありましたが今はございません」という返事だった。
ネットで事務員が検索したところ、恐るべし《アマゾン》。発注をかけると翌日届いた。
注意書き、歯磨き・カップ麺などに使用してください。決して肉や魚等の料理には使わないでください。火力などの諸条件で時間が異なりますから。
私はてっきり料理に砂時計を利用するものだと認識していた。
私は歯磨き用に使っていたからユニークな使用方法だと、秘かにほくそえんでいたのである。
歯磨きが主な使用目的なのである。
これでまた朝の歯磨きが楽しくなる。

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2月14日、バレンタインデー

「仕事十訓・管理職への要望」と題して、西嶋氏が講座を担当してくれた。
彼は地元の金融機関において専務理事として定年を迎え、今現在は神戸の北野に生活の場を移し、社団法人「宍粟大使館~好きやde西播磨~」の館長として宍粟市の発展のために尽力している。
彼の講座は実務に即したもので、私は大好きである。
例えば、
《部下に困っている事を、三つ言わせてそれを取り除いてやる》
《脱皮できない蛇は死ぬ》
《部下を使っているのではなく、部下の力を使わせてもらっているのである》
《トップには生の本当の情報は入ってこない》
《期限を切った仕事をさせる》
《管理職が最も大切なのは思いやりの心である》
どれをとっても当たり前だが実践するとなると、なかなか難しいことばかりである。
バレンタインデーに相応しい、西嶋氏からの贈り物である。

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拝啓親父殿

平成29年1月31日午前7時15分、父は息を引き取った。
91年と5か月と18日の壮絶な生涯であった。
今にして思えば親不孝な息子だった。6歳で小児結核を患い、続いて脳脊髄膜炎に侵され、私は生死を彷徨った。当時は決して裕福ではなかったが、最新の医療技術と投薬でいま私は命を頂いている。
病弱だった少年時代から、中学高校と進むにつれ世間並みに健康になった。しかしながら大学受験に失敗し、再び貴方に心労を負わせてしまった。
大学を卒業すると同時に結婚をし、八幡建設に入社した。多くの人の尽力で私はトップセールスの道を歩んだ。経営顧問の先生の強い進言で私は管理者への道を歩むことになった。たいそう不本意だったことを覚えている。
岡山営業所、明石営業所、神戸大開展示場等々の開設並びに運営に携わりながら、35歳の時、現(株)パナホーム兵庫、当時の八幡ナショナル(株)の代表取締役に就任した。
(その後の詳細については、拙著「或る二世経営者の挑戦」に記している。)
その時期くらいから貴方との事業経営に関して価値観が違い始めてきたと思う。故に、出来得る限りパナホームの経営に接触させないように、私は務めてきた。内心は不満だったと思う。しかしながら、従業員が私と貴方の食い違いによって混乱をきたさないように、私なりに配慮したのである。貴方が間違いで私が正しい、と云う見地からではなく、パナホームという企業に合うか合わないか、と云う見地から判断したからである。随分寂しい思いをしたと思うが、許して欲しい。
2003年、私は私の意志に反して妹婿から剥奪するようにして、倒産寸前の八幡建設の社長に就任した。整理に5年、企業らしくなるのに5年、計10年の月日を要した。(パナホームは3年もかからなかった)
貴方との関係は、親子から強くてパワフルな上司へ、そしてライバルへと変化していった。20年前からは、存在さえも気にならないようになり、最近5年くらいは各会社の業績について半年に一度報告をする程度だった。
一昨年創立50周年記念式典の席上で、私は社員を代表して感謝状を贈った。口には表さなかったがどうやら気に入っていたようで、仏壇の横に飾ってある。

                  感謝状
              オーナー 香山 繁殿

あなたが50年前に6人で創めた会社が今はグループ併せて328人の企業になりました
売り上げも200億に達し利益は5億を超す企業に成長しました
あなたが創業されたお陰で私たちが今ここに存在しています
今日までの道程は決して平坦ではありませんでした  その度ごとにあなたは独特の感性で知恵と勇気を奮い数々の決断をしてこられました
未来に向かい私たちはあなたが創り上げた歴史と伝統を次世代に繋げて行きます
ここに全社員から心を込めて感謝の意を表します
平成27年11月18日
  八幡グループ全社員代表
    ネットーワーク議長 香山 廣紀

亡くなった31日と翌1日、私は父と二人だけの夜を過ごした。もちろん人生初である。お互いに下戸であるから、酒を酌み交わすこともなかったし、旅行も行ったという記憶はない。ただ10年以上前にゴルフをした思い出がかすかに残っている。
まことにもって親不孝な息子である。
家内が留守だった数日間、私は一人で燈明を翳し正信偈を読経した。
「まさかお前にお経をあげてもらえるなんて思いもしなかった」という声が聞こえてきそうだった。
私は、
「私もあなたのためにたった一人で読経するなんて思いもしなかった」と、声に出して囁いた。
無常の命、私もいずれそちらに行く、ラウンドをしながら一杯やろう。

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歴史シリーズ~市川房枝~

市川房枝女史を知る年代は少なくなったと思う。私が彼女を知ったのは、中央大学に在学中のことである。彼女が87歳で亡くなるまでの33年間の一時期を、同じ空気を吸いながら生きたことになる。
女史は愛知県で生まれ、師範学校を卒業後新聞記者となり、平塚らいちょうらと共に、日本で最初に婦人協会を設立し、婦人の参政権獲得活動を展開する。これは私の推測だが、NHKの朝ドラの主人公のモデルにもなった『広岡浅子』とも接触があり、少なからず影響を受けたものと思われる。1919年から続けた婦人参政権獲得運動は、戦後ようやく実り、1945年12月に実現するのである。その後は、売春禁止や再軍備反対運動に尽力し、社会派運動家として万人の知るところとなる。
1953年、第3回参議院通常選挙に東京地区から立候補し当選を果たす。その後全国区に変わってから、合わせて通算5期25年間参議院を勤めた。87歳で全国区に立候補し、見事トップ当選を果たした。が、同年心筋梗塞のためその生涯を閉じた。
彼女の選挙スタイルは、組織に頼らず個人の支援者が自らの手弁当で行う、お金のかからない、しがらみのない、きれいな選挙スタイルを生涯通した。いかなる政党にも属さず、無所属議員の集合体である「二院クラブ」として政治活動を行った。後に有名になった《青島幸男氏》や《横山ノック氏》らもその二院クラブの会員として活躍した。元総理の《菅直人氏》も女史の秘書として政治家への道をスタートした人物である。
沖縄返還密約問題に対しても、社会党の党首や後の社民党党首を歴任し、衆議院議長も務めた《土井たか子女史》らと共に、時の自民党総裁であった《佐藤栄作氏》と激しく議論を交わした。また国際連合にも日本人女性を送り出したいと考え、当時国際基督大学で教鞭を取っていた《緒方貞子氏》を説得し了承を得、それを契機に緒方氏は広く国際社会で活動を行い、国連難民高等弁務官として世界平和のために尽くした。
市川女史が亡くなり35年が経過しようとしているが、相変わらず政治家の不正は改まる要素は伺えない。原因の一つは選挙にお金がかかり過ぎることであり、今一つは切れないしがらみにある。
蓮舫女史か小池知事に期待するのは、少々酷であろうか? 

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