私は誰でしょう?

昨夜来の雨で桜の花が散り始めた。今年は例年より長く私たちの目を楽しませてくれた。昨年は開花の期間も短く、色も今年の方が鮮やかだった。
月初は何かと忙しく天候にも恵まれなかったので、志澤塾のクリーン活動は延び延びになっていた。中川女史(笑)と二人だけであるし、《今から》と言えば可能である。
で、本日クリーン活動を行うことにした。
相変わらず捨てる人はなくならない。今日は殊の外多かった。
空き缶・ペットボトル・食べ残しの弁当・煙草の空き箱・ティッシュ等々…
私は捨てる人間が理解できない。自分の自宅にごみは捨てないはずである。
令和の時代中に戦争とポイ捨ては消滅してほしいものである。

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まんぷく終了!

車の中でラジオを聴いていると、落語家の桂南光が「あと一週間でまんぷくが終わる、寂しい」という言葉を耳にした。
3月で世界で初めてインスタントラーメンを開発し、世に送り出した日清食品の『安藤百福』氏の妻である『仁子』夫人にスポットを当てた朝ドラが終了した。私も南光さんと同じく気が抜けた気分になった一人である。《あまちゃん》ほどではないにしても、何人かは《まんぷく》ロスに陥った人がいるかもしれない。
今回で4度目の講義をお願いしたのは、現WFP関西の代表で、日清食品の副社長を務められた「砥上隼人」氏である。
まんぷく放映中は、様々に支障をきたすので終了を待ってお話して頂いた。
勿論ドラマと現実とはかけ離れた部分はあるが、経営とか物づくりに対する情熱と執念は全く変わらない百福氏を支えた仁子女史は、ドラマで描かれた様子そのもので、二人三脚でインスタントラーメンもカップヌードルも作り出したのである。
日本発で、世界に於ける20世紀の大発明は、3位がヘッドホンステレオ、2位がカラオケ、そして堂々の一位はインスタントラーメンである。
48歳でインスタントラーメンを発明し、61歳の時にカップヌードルを作り出し、百福氏は2007年1月5日に96歳で亡くなるその日まで仕事をし続けられた。一方仁子夫人も2010年3月17日92歳で亡くなられるのであるが、まさに波乱万丈の生涯だった。
安藤ご夫婦を最もそばで見続けてこられた砥上氏は、講義の最後に我々に以下の様なメッセージを送って頂いた。
《二代目三代目はある意味創業者より困難である。絶対してはいけないことは、『逃避と責任転嫁』である。同族の争い程醜いものはない。コア事業を活性化し利益を追求し、稼ぐ得意技を磨く必要がある。自分の部下を嘆いてはいけない。評価は公平かつ公正にしなければならない。》

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平成最後の入社式

平成最後の入社式は、例年使用する会場である姫路市文化センターの日程の都合で4月2日に執り行った。今年は全グループ併せて11人の新人が入社してきた。
最近数年間は売り手市場と言われており、学生にとって都合の良い環境が続いており、企業の採用計画は思惑通りには進んでいない状況である。
私が経営の最先端で学生の採用に尽力していた時代も、採用する側と学生側との位置関係はめまぐるしく変化していたように思う。平たく言えばそれぞれの立場において、良いときもあれば悪いときもあり、繰り返していたように記憶している。
こののちも益々少子化の時代になり、企業は人手不足になるであろうが、それに代わるAI化も進み混沌とした社会が到来してくるであろうし、一概に現在の人材事情が継続するとは思えない。
  私は入社式ではここ何年もの間「司馬遼太郎」が我々に残した最後のメッセージである《21世紀に生きる君たちへ》を朗読する。
次いで今年は『存在価値』と『承認』と言うテーマで40分程、~人間が存在する価値、生まれてきた意義~等について具体的な例を引用しながら、全グループの社員に向けお話をした。そしてお互いに承認しあいながら生きて行って欲しいと説いた。そうすれば豊かな人生が遅れるであろう、と締めくくった。
来月5月1日には新しい元号になる。
『令和』。
私は捨てられるものは捨てようと思っている。身軽になって新しい『令和』を生きていく決意である。

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私もようやく仲間入り?

口は災いの元である。
症状其の一・夜中に咳が止まらない。多分に喘息の気はあるのだが、頻繁になった。
症状其の二・鼻水が出る。いくら鼻を噛んでもすぐ垂れる。
症状其の三・くしゃみが出る。しかも相当大きなくしゃみである。
症状其の四・目が痒くて涙が出る。薬局へ行き目薬を買い求めたが症状は一向に治まらない。
グーグルで検索してみた。完全に花粉症の症状である。それも立派な花粉症である。
昨年までは花粉症を誇る連中に、『こんな山奥にいて何が花粉症だ!気合が入っていないからそんなものに侵されるのだ』と言い続けていた。
口は災いの元である。
あと何年も生きられないのだから、これを機会にさらに謙虚?になろう・・・

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大横綱白鵬?

益々白鵬が嫌いになった。私の相撲歴から抹殺したい。
前にも書いたが私の相撲歴は古く吉葉山時代にまで遡る。今日まで陰になり?日向になり?見守ってきた。一時期ある力士の後援会にまで入り、谷町まがいのことまで行ったことがある。
大阪場所(平成31年3月)において3月20日の11日目の取り組みである。
今場所に大関昇進をかける貴景勝と白鵬の取り組みでの白鵬の相撲についてである。
《あれはなんじゃ!プロレスか?エルボウ二発、あとは張り手という名の左右のフック!》
それでも貴景勝は果敢に攻めていったが、隙をつかれあえなく上手を取られ投げ飛ばされたのである。
そもそも41回も優勝をしている大横綱なら、受け止めて勝負するのが大横綱の務めである。勝てばよいというものではない。品性も品位の欠片もない取り口である。その取り組みについて一言の苦言も呈さない相撲協会及びその関係者達。白鵬に媚びてどうするというのだ。北の富士さんなら、と期待していたがそれもない。
貴景勝は白鵬との敗戦を引きずったまま翌日の豪栄道戦では、二の矢三の矢が出ず負けてしまった。22歳の若者の芽を曲がったやり方で摘んでしまってどうするのだ。
そもそも先場所11勝を挙げた貴景勝を大関にしなかった協会自体の処置についても納得していない。内容が悪い、と言うのである。その裏には様々に物議をかもした貴乃花問題が尾をひいているような気がしてならない。
こうなれば何としても貴景勝が後2番勝って10勝し、大関になってくれるのを祈るばかりである。
それが実現しなかったら今度こそ相撲と縁を切るかもしれない。平成と共に。

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あなたによりそって ~with you~

  3月の講座は少々重い講座になった。
神戸新聞を定年で退職された後、多少体調を崩されていたが今は元気になられ、社会福祉法人「はりまいのちの電話」事務局長として、ボランティア活動をされておられる増田氏に3月12日の講義をお願いした。
自死の予防を目的とされる《いのちの電話》は全国組織で展開されており、そのルーツは1953年ロンドンにおいてヴァラー牧師の手によって始められ、今では世界100カ国に存在し、日本では1971年東京に開局された。続いて1978年に神戸で開局され、1988年「はりまいのちの電話」がこの播磨地方に開局された。
「はりまいのちの電話」の電話番号は『079-222-4343』である。毎日365日午後2時から深夜1時まで受け付けている。年間12万件以上の電話があるにもかかわらず、つながる数は1日19件程度で、年間7000件程。その確率は6%しか受け答えが出来ていない現状である。その原因は①一人の平均通話時間が69分、長いのは2時間以上にも及ぶとの事。②相談員の数が登録人数61人、実働44人と圧倒的に少ない事。(相談員は全くのボランティアで無給)③予算が不足している。等が挙げられる。
全国で自殺者の人数はピーク時には3万人を超えていたが、今は減少傾向にある。とは言え2万人を超えており、その数は交通死亡事故者の6倍に当たる。
私は先日少しだけ寄付をさせて頂いた。
~もし、あなたが自殺を考えているなら、取り敢えず『079-222-4343』に電話してください。仮につながらなかったとしても、死ぬことはいつでもできます。せめて明日に延ばしてください。お願いします~

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桜子初節句

昨年の5月に二人目の孫が生まれた。今回は女の子だった。
初孫、倫太朗の時と同様我々夫婦の意見は採り入れられず、命名は《桜子》と名付けられた。
孫の誕生と被るように今から約半世紀前に私たちの長女として生まれた《あずさ》のことが思いだされる。あの時は友人の結婚式で東京に行き、もう一晩宿泊するつもりであったが取り止めて帰郷した。その翌日、1月15日に長女が誕生した。今《あずさ》は遠く離れたウィーンで暮らしており、かれこれ20年が経過しようとしている。年に一度夏休みを利用して日本に帰ってくる。家内は何度かウィーンを訪れたが、私は7年前に一度だけヨーロッパ旅行の途中に立ち寄って娘と旅をした。
家内は長男の嫁と一緒に桜子の初節句を祝って、先月の末に姫路のデパートに出掛け『おひな様』を買い求めた。それが自宅に届いたという連絡を受けたので私は「桜子」に合う目的とおひな様を愛でるために長男の自宅を訪問した。昔は七段飾りとか五段飾りなどが持て囃されたが、昨今は「男雛」と「女雛」の一対が主流だそうである。
中々上品な顔立ちで、多分美人になるだろう《桜子》にふさわしいおひな様だった。
小一時間ほど滞在し、長男宅を後にした。
ただ寂しく思う事がある。桜子の花嫁姿は見ることはない。明るく生きて欲しいと願うばかりである。

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波裡庵雑記

波裡庵とはお茶室の名前である。
塾を開講するにあたり、モデルハウスを購入し、その空いたスペースを利用し茶室を増築した。その茶室を『波裡庵』と命名した。
私のお茶とのそもそもの関りは茶室から始まっている。20年以上も前からお茶室が建てたくて仕方がないという衝動に駆られ続けていた。当時はその余裕もなかったが、第一線からの引退の道筋が見え始めたのをきっかけに、本格的に茶室建築構想を描き始めた。茶室を創るのならお茶の一服も点てなければと思い、この播磨地方で最も相応しい「河嶋宗康」先生に師事し習い始めた。
7年ほどが経過し、一応初級・中級と許状も頂き上級の一歩手前まで進んだ頃に、私はこの先何十年お茶を習ったとしても極めることは出来ないと悟り河嶋社中を退くことにした。茶道は日本文化の全てを凝縮していると思う。
茶道のお点前は勿論、お道具の由来・所作振る舞い・お軸・茶花・はたまた香道に至るまでその奥義を推し量ることは出来ない。
遣唐使によって伝えられた茶は、戦国時代になると武将たちは挙って茶の湯に没頭し、貴重な茶道具を所有するのが一種のステータスになった。この時代に登場したのは堺の豪商の子として生まれた《千利休》である。利休は信長・秀吉の茶頭として重用されるがご存知の通り、後に華美さを好む秀吉とわび茶を追求する利休との間に亀裂が生じ、茶の湯に関する決定的な価値観のずれを修復することが出来ず数奇な運命を辿ることになる。
利休から数えて三代目「宗旦」を境に、《武者小路千家官休庵》《表千家不審庵》《裏千家今日庵》の三千家に分派し、利休の目指したわび茶を継承しながら今日に至っている。
茶の湯を極めることを諦めた私だが、お茶とは関わって行きたいという思いは強く、今現在は月二回の割合で出稽古に来てもらっている。各企業の社員たちにも広く呼びかけ、今では私を含めて9人の社中である。1月の初釜に始まり、5月は野点、11月は炉開きと年三回ほど茶会を催している。野点と炉開きは私の関わりの深い人々をご招待し、初釜は全グループンの社員を対象に執り行っている。私の我儘で気楽な茶の湯はまだまだ続きそうである。最後に利休居士の言葉を添える。
~茶の湯とはただ湯をわかし茶をたてて のむばかりなる事と知るべし~

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父の三回忌

父が91歳で亡くなって2年が経過した。
生前は私と事業経営や生き方について全く相容れなかったが、亡くなってみると不思議と良い面だけが浮かんでくる。本当に得な人である。あれほど入院を嫌がっていたくせに、我々の懇願にも似た説得に応じて隣町の病院に入院した翌日の朝に息を引き取ったのである。入院を承知した時点では、我々身の回りの者が代わる代わる病院に詰めようと、前日に話し合っていたのが、現の世界のように感じられた。あっけないと言えばあっけなかったが、我々の手を取らせることはなかった。(お手伝いさんは相当困らせたと思うが)~お前達の世話にはならん~と言う声が聞こえそうだった。
平成31年1月26日。心あるものばかりが相集い父の三回忌を執り行った。
昨年同様小雪のちらつく中、皆それぞれに「昨年も雪が降っていたなあ」と言いながらお墓参りをした。
場所を変え簡単な食事会を催し、子供たちの賑やかな笑い声の中、我々は様々に思い出話に花を咲かせた。
次は七回忌である。そこまでは私の代で何とかなると思うが、それ以降は子供たちに託すことになりそうだ。
ぼちぼち私も遺言書の作成に取り掛かる準備をしなければ・・・

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大川氏大いに語る!

今や大川氏を賃貸業界では知らない者はいない、という存在である。
彼との出会いは私がまだパナホーム兵庫の社長就任中に、パナホームのアパートを購入し、それをきっかけにオーナーズクラブに入会し、その総会で面識を得たのが最初だった。
それから何年か後に社長を退任し志澤塾を開講するにあたり、塾生を公募した際に彼が応募し再会したのである。2年位は比較的出席率もよかったのだが、多忙を極めるようになり、休会したいという申し出があり、塾生としては現在に至っている。
私は本当に真に望む情報とは知らぬ間に集まってくるものである、と考えている。集めようとして集める情報などたかが知れていると思っている。ある日何処からともなく彼が執筆した書物が私の手元に転がり込んできた。
題名は『新聞少年が一代で4903世帯の大家になった秘密の話』である。
私は読み終えると同時に彼にアポイントを取り、今回の塾での講義のお願いをした。彼は快諾してくれた。
2019年2月現在で、303棟・5024世帯・駐車場2733区画を所有しているビッグオーナーである。
彼は今どき珍しい《中学卒》である。彼のスタートは1987年に読売新聞の配達をする、所謂新聞少年から始まっている。彼の努力が認められ、若くして店長を任され、早くも2003年には最初の収益物件を手に入れている。彼は中古物件しか購入しない。何故なら家賃が下がる心配はないし、リフォームすればそれ以上の家賃が期待できるからである。彼が当面目指しているのは、ITやYouTubeを巧みに織り交ぜながら、母子家庭を中心に家賃0の物件の提供である。
この先が楽しみな男性であり、久しぶりにワクワクさせらる人物である。見守っていきたい一人である。
志澤塾の《枝垂れ梅》が知らぬ間に満開を迎えようとしている。もうすぐ3月である。1日からお水取りも始まる。4月には新しい年号も公になり、5月に新天皇が即位される。
これからの5~10年、正しく《下山の思想》である。

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