オリンピック雑感

いよいよ東京オリンピックの開催まで1年を切るところまで迫ってきた。あの《おもてなし》が随分昔に思えていたが、もうここまで来たという気分である。その《おもてなし》女史も旬の政治家小泉氏と結婚が決まり、赤ちゃんまで宿しているとの事。おめでたい限りである。
1964年に開催された東京オリンピックの時、私は16歳で高校生だった。自宅にテレビが初めて購入され、白黒の画面で目が痛くなるような画面に噛り付いて観たのを記憶している。大松監督率いる女子バレーが当時のソ連に勝利した瞬間、円谷選手のマラソンでゴール前のデッドヒート、男子体操の華麗なる演技、ヘーシンクに負けた日本柔道等々未だに脳裏に張り付いている。早いものであれから55年が経過しようとしている。
日本で開催されるのであるから是非この目で見たいと思いチケット購入を考えたが、その術もなく期間が過ぎてしまい申し込みすら出来なかった。年配者にとって煩わしいことこの上ない申し込み方法だった。どうしても見たくなったら旅行社に依頼すれば何とかなるのでは?と気楽に考えている。
私はふるさと「宍粟市」を聖火ランナーが通るという情報を知り、聖火ランナーとしてオリンピックに参加したいと思い申し込みを行った。もちろんどうなるか全く分からないが、兵庫県とスポンサー企業である日本生命に参加したい旨を伝えた。確率は100倍を超すと思われるが、当たればきっと楽しいと思い今からワクワクしている。この12月には発表されるはずである。
期待を込めて心待ちしよう。

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24時間テレビに思う

私は31歳の時に、JC所謂青年会議所に入会した。JCの基本3信条は、修練・友情・奉仕である。殆どのメンバーは確かに友情は育んだと思うが、修練を積み重ね、成長していったメンバーは少なかったように思う。特に奉仕の概念に芽生え、卒業後(40歳で卒業)も奉仕活動を個人として継続し続けているものは極限られている。
私は37歳になって初めて地球上に飢えで命を落とす子供たちの数の多さを知り愕然とした。何とかしなければ、と強く思ったのである。と同時に自分自身の無力さをひしひしと感じた。丁度その頃《ハチドリのひとしずく》という南米地方に伝わる民話に出会った。今自分に出来ることをすればいいんだ!まさに覚醒である。肩の力が抜け、目の前の霧が晴れすっきりした。
人生の流れとは不思議なもので、東京での講演会で、当時伊藤忠の会長だった丹羽宇一郎氏と巡り合い国連の下部組織である《WFP(国際連合世界食糧計画機構)の存在を知った。それ以来それまで兵庫県の福祉法人に寄付していた絵画展の収益金をWFPにさせて頂くようになった(個人も微々たる金額であるがこれを機に口座から寄付している)。WFPの日本本部は横浜にあり何度かお邪魔した。WFPは寄付金額の75%が活動費で、25%が管理費である。その他の団体はその逆である。
阪神淡路大震災の時もそうであるが、東日本大震災はテレビでの映像が生々しかったので、我々グループも個人もかなりの額を義援金として寄付をした。しかしながらその義援金の行方は我々には今もって知らされていない。
24時間テレが今年も開催された。昨年で41回を数え、募金総額は381億5千万円に及んでいるとのこと。日本テレビのHPを開いてみると様々に寄付先は記してあるが、細かな明細までは分からない。あちらこちらに募金箱が設置され、よく理解をしていない幼児が自分の貯金箱からお金を募金箱に入れる。年金暮らしのお年寄りも募金に協力する。それをタレントやお笑い芸人たちが、笑顔いっぱいで受取り~ありがとう~と言う。なんと微笑ましい光景ではないか、と誰もが錯覚する。でも私は吐き気がする。タレントたちは、当然ノーギャラだろうな、そして自分自身もいくばくかの募金をしているのだろうな、と勘繰るのは間違っているのだろうか?
今一度皆で考える必要がある。

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地方創生のカギは?

半年に一度くらいの割合で上京するが、その度ごとに建築現場の多さには驚くばかりである。タワークレーンが林立し高層ビルが建設されている。何が立っていたのか思い出されないが、取り壊され新しい建物へと変身してゆく。オリンピックの影響のせいもあるが、それだけの理由ではないと思われる。東京駅から新幹線に乗り名古屋を過ぎ、大阪を過ぎ神戸、姫路へと帰ってくるにつれ、タワークレーン姿は極端に影を潜めほとんど見なくなる。
政治家を含む霞が関に位置する官僚たちは東京にいては、不況やデフレや地方の疲弊など感じるわけがない。
8月27日の講座は、この4月に兵庫県会議員選挙で姫路地区においてトップ当選を果たし返り咲かれた《北野実》氏にお願いをした。氏は農政環境常任委員会の委員長を務められており、その立場から『地方創生と農林水産業』というテーマでお話を頂いた。ご自分の目や足で兵庫の各地を視察され、現況と早急に取り組まなければならない課題についても触れて頂いた。
水田センサーなどを活用し生産性を上げ、スマート農業を展開し、成功されている例を紹介された。日本一のブランド牛、神戸牛の生産地であう但馬地方を、ファンドを取り込んださらに大規模化した酪農事業に取り組み、六次産業にまで発展させていく必要がある。また夏秋イチゴやイチジク、生で食べられるホウレンソウなど、様々な取り組みがされている。
《儲かる農林水産業》を展開し、若者が魅力のある事業にして行けば、地方の創生も夢ではなくなると説かれた。
今兵庫県の人口は550万人を切っている。このままでは2040年ころには400万人位になり、兵庫の各地方都市は完全に埋没してしまう。今こそ農林水産業を新しい感覚で立ち上げ企業化すれば地方は必ず創生する。
一極集中を打破するために、我々が立ち上がり起業していこうではないか。

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北房カントリー・今・昔

記憶に定かではないが夏休みを利用して、気の合った仲間たちと20数年ぶりに北房カントリーを訪れた。中国地方のチャンピオンコースとして平成の初めにオープンしたと思っている。
当時は、姫路に本社を置く「北文土地株式会社」が経営母体だった。北文土地は播磨地方は勿論、兵庫県各地で宅地を開発し建物を建てて販売する、所謂デベロッパーだった。現在活躍中の「ヤング開発」「昭和住宅」「ハウジングタイホー」等々の各社は、北文土地をビジネスモデルにした企業である。北文土地はこの地方のデベロッパーの先駆者だった。
当時日本列島改造論の風が吹き荒れ、少々の財力がありゴルフを嗜むものは、挙ってゴルフ場のオーナーになりたくて様々に模索したものである。私の父もその一人で、岡山県と宍粟市に気の合った仲間7~8人でゴルフ場造りに奔走した。宍粟市のゴルフ場は幸か不幸かオープンし何年か後、ブームが冷めやらぬうちに父とN氏の同意なしで他の何人かが売却してしまい経営から外れてしまい、結果預託金問題で頭を悩ますことはなかった。岡山のゴルフ場は最終的に多少問題が発生したが、第三者に円満に売却をすることが出来、株式の出資金ぐらいの損失で済んだようである。
ゴルフ場経営においてこれ程杜撰な取り組みはない。預かっておいた預託金でゴルフ場を建設運営し、10年が経過して出資者が返還を求めると無いから返せない。これを通し、裁判沙汰になるとさっさと破産宣告をしたり更生法を申請し、責任など一切取らないで済ませてしまう。
ところが北房カントリーの実質オーナーであった北文土地の《K氏》は返還問題に真摯に取り組まれたのである。事業を執り行う者にとって当たり前なのであるが、それが原因で名門北文土地は事業の存続が出来なくなってしまうのである。
現在北房カントリーは芝生の植生会社がオーナーで経営をしておられるそうだが、何処か昔の風格とでも云おうか雰囲気は感じられなかった。
ちょっと寂しい夏休みのワンラウンドだった。

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うわさの滝流しそうめん

先日孫の倫太朗と1歳半になるさくら子を連れて、姫路から滝流しそうめんを食べに義娘がやってくると家内が言うので午後の要件をキャンセルし、私も一緒に行くことにした。民放とNHKでも紹介されたそうで、ちょっとしたブームを起こしているとの事。
何十年も前に訪れた記憶を辿りながら私は車を走らせた。
音水湖(引原ダム)を左手に見ながらS字カーブを曲がり、そこを通り過ぎると宮中の名物素麺流しのお店が目に入ってくる。そこから7~8分ほど行くと右手に《滝流しそうめん》の幟が確認できた。そこは鳥取県との県境に近い位置にある。
受付で取り敢えず4人分の食券を買い、係の人に手渡す。その人の案内で席が4人分用意された。待つこと数分。20メートルくらい前方の樋から、氷ノ山からの湧水に乗って真っ白なそうめんが流れてくる。それを箸ですくいながらお出汁につけて頂く。自宅で食べる素麺よりもおいしく感じてしまう。倫太朗の燥ぐ様子は尋常ではない。一人前はあっという間に平らげて我々も、もう一人前追加したが、それでも足らずに倫太朗だけはさらにもう一人前を追加した。食べ終えてから倫太朗と家内は谷川に下りていき水遊びを楽しんでいた。我々が帰るころにはたくさんのお客で賑わい行列が出来ている。
途中道の駅でソフトクリームを食べ、山崎に着くと暑さが迫ってきた。3~4度は気温差があると思われる。滝流しそうめんと《涼》を味わいに一度行かれては、とお薦めする。但し土日は避けた方が賢明である。
ちょっとした孫孝行の夏真っ盛りの半日だった。

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愛しの《凛田莉子》様

今私は凛田莉子に夢中である。彼女は万能鑑定士である。それも相当優秀な鑑定士である。しかも若くて綺麗で純な心を兼ね備えた鑑定士である。
生まれは沖縄県の離島の一つである波照間島で、八重山高校卒である。中学高校を通じて彼女ほどの劣等性は見当たらないが、持ち前の明るさと優しさは、他の者たちを元気にさせる不思議な魅力を持った少女だった。
莉子は生まれ故郷波照間島全体が、一年を通じて水不足に悩まされている状況をなんとかしたいと崇高な志を抱き、殆どの人達の反対を押し切って東京に行くのである。数々のバイトを転々としながら、あるリサイクルショップを経営している父娘に巡り合うのである。この出会いが莉子の人生を大きく変えていく結果になる。利益よりも人の為に尽くす社長の経営姿勢に心を打たれ、その社長から独特の勉強方法を学び、莉子はメキメキとその才能を開花させ、万能鑑定士の道を辿って行く。
飯田橋に小さな鑑定事務所を構えた凛田莉子は、夏休みを利用してパリに行く計画を立てたのであるが、莉子の成長ぶりを知らない両親は保護者として、八重山高校の担任だった「喜屋武先生」に随行を依頼する。先生もまた現在の莉子を知る由もなく、高校時代の劣等生を一人で行かせることは出来ないと、同行する(第5編)。莉子は仕方なく同意するが、時間が経過するにつれて恩師は、その桁外れな秀才ぶりに驚かされる。パリに着くと高校時代唯一のほのぼのとした初恋心を抱いた「楚辺君」と再会し、ある食肉事件に巻き込まれるが、みごと解決しパリを後にする。
私は気に入った小説に邂逅すると決まってドラマ化し、キャスティングをイメージしてしまう。主役の凛田莉子は?莉子に恋心を抱いているがうまく表現できない今どき初心な週刊記者小笠原は?高校時代の恩師喜屋武先生は?初恋の相手楚辺君は?
最初凛田莉子には北川景子かな?と思ったのであるが、莉子は小説の中では23歳なので躊躇していたが、ある人に相談したところ「山本舞香」を薦められたので、ネットで調べてみるとぴったりだった。で、凛田莉子は山本舞香に決定である。後はゆっくり考えることにする。
早くどこかのテレビ局でドラマ化しないかなあ!

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小池君の事

小池とは52年の付き合いになる。故に女房より長い。
以前は一年おきくらいにお互いが、彼が居を構えている神奈川の藤沢と私の住まいする兵庫とを行き来してゴルフを楽しんだが、ここ20年くらいは途切れている。時々私が上京する際に時間が合えば食事をする程度である。私は毎年この時期になると素麺を送る。彼は黒帯がたいそう気に入っている。彼は私と同じく下戸である。ここで迷言を紹介する。「おい香山、せめてビールがサイダーくらい美味しかったら飲むんだけどさあ、不味いは酔うは良いとこないよなあ」。私の愛読書の一つ「坂の上の雲」を薦めたのも小池である。
彼との出会いは、私が中央大学に入学して間もない頃、何処で嗅ぎつけたのか知らないが「お前麻雀詳しいらしいな、俺たちにも教えろ」と言って、杉山と二人でやってきたのが始まりである。半年もしないうちに彼は私と同格くらいになり、一年後には完全に追い越されてしまった。片や杉山は卒業まで私を超えることは出来なかった。(杉山の事はいずれそのうち記す)
ある時小池が「ダンスパーティーに行かないか?」と誘ってきたので二人で出かけたのであるが、初めてだった二人は当然のごとく、《ジルバ》も《タンゴ》も《ブルース》も全く踊ることは出来ない。所謂《壁の花》状態であった。それから半年くらいたって、また彼が「ダンパ(そう呼んでいた)に行かないか」と言ってきた。あまり気乗りはしなかったが、せっかくなので出かけたのであるが、なんとやつは全てのダンスをカッコよく踊りこなすのである。聞いてみると、あれからダンス教室に通い習ったのだという。やられた、と私は愕然とした。私はそれ以来大学卒業まで一度もダンパには行かなかった。ダンスの時もそうであるが《ビリヤード》の時も全く同じ展開だった。
神奈川県下一の進学校である『湘南高校』卒の彼は勉学面においてももちろん遠く及ばなかった。唯一私に勝てないのはゴルフである。それは口にこそ出さないが彼も心の中で認めているようだ。
新幹線の特殊部品を製作している、所謂オンリーワン企業の小池製作所は早々と弟に委ね、今は鎌倉雪ノ下で奥様とお茶屋さんを営んでいる。土日は特に忙しいのでお店に出ているが、ウィークデーは比較的余裕があるので、ゴルフを楽しんでいるようだ。ちなみに名門戸塚カントリーのメンバーである。1ヶ月に一度くらいはどちらからでもなく電話でバカ話をし、近況を確かめ合っている。
全く異質で合わない二人だがこの不思議な付き合いは、どちらかがこの世にいなくなるまで続きそうである。

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参議院議員選挙終わる

昨日7月21日、参議院選挙の投票が行われ、良いのか悪いのか判断は付きかねるが、結果は大方の予想通りに落ち着いた。
私は自民党が嫌いではないが、安倍首相には白鵬に対してくらいの嫌悪感を抱くのである。正義ぶって語る口調に虫唾が走る。自民党内に健全な野党が現れ、出来るだけ安倍首相を引きずり降ろして欲しい。しかしながらこの勝利によって、歴代首相の在任記録を塗り替えるのは必至である。辛うじて憲法改正だけは当面免れそうである。
先日、東京で開催された「日本経営開発協会」が主催する三日間に及ぶ夏季セミナーに参加した。昨年12月まで内閣官房室に在籍していた人物の講義を聞く機会に恵まれた。増税反対論者の彼は、あらゆるデータに基づき様々な観点から安倍首相に提言したが聞き入れられず、職責を辞したと語った。デフレから脱却できていない現在、増税は危険極まりない政策である、と分かり易く我々に話してくれた。一理あると私(増税支持派)も思った。
それにしても投票率の低さは目を見張るものがある。48.8%の投票率で、過去二番目の低さだそうだ。半分にも満たない投票率で、果たして民意が得られたかと言うと、疑問に思うのは私だけではないはずである。一番の原因は《関心の無さ》にあるらしい。投票に行かないものに原因があるのか、政治に対して期待感が無いのかどうか知らないが、兎に角低すぎる。今一つの原因は設備と言うか、投票所がかつてよりも極端に減ったことにも起因していると思う。身近な例で話すと、私の自宅は公民館に隣接している。ほんの少し前はその公民館が投票所だった。いつのころからは定かではないが、今は市役所まで出かけなければならない。移動手段がない高齢者はおのずと行けなくなる。
論点の定まらない盛り上がりに今一つ欠けた今回の選挙だったが、日本の将来を、新しい《令和》を託すには物足らない選挙結果だった。

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七月の講座から

七月の講座は濵野氏にお願いをした。
濵野氏とは彼が23歳頃からの付き合いだから、かれこれ37~8年になる。これ程長きに亘って途切れることなく、所謂メーカー社員とお付き合いが続いているのは彼だけである。
濵野氏が大学を卒業後、研修期間を終え当時の《八幡ナショナル住宅》に、一介の営業マンとしてメーカーから出向してきた。
私はその時期より半年くらい遅れて、八幡ナショナルの「代表取締役副社長」を拝命し、八幡ナショナルの再建を託されて就任した。35歳だった。
しばらくして出向期間が終了した彼は、メーカーであるナショナル住宅建材に帰っていった。間もなく彼はメーカーの営業担当としてわが社を担当することになった。
彼との結びつきが深くなっていったのは、2005年に大阪南支店に、支店長として就任してからである。当時大赤字の支店を見事1年で黒字に転換させ、3年後には優良支店として経営優秀賞として表彰を受けたのである。その功績を認められ、社員85名の南支店から、社員270名を要する大阪支社長に抜擢された。
私は彼の出世を大いに喜び、いずれはメーカーの役員として活躍するだろうと期待していた。しかし2010年突然長野県に位置する「パナホーム東海」に代表取締役社長として出向を命ぜられた。今でも彼が新大阪の駅から不安いっぱいの声で、私の携帯電話に
『とりあえず行ってきます。香山さんの18か条の憲法だけが頼りです。』と、かけてきたのを覚えている。
彼は5年間で超優良企業に見事育て上げたのである。経営者の資質の良し悪しの判断基準の一つに、退任後、その企業の経営状態がどうかということであるが、現在もパナホーム東海は健全企業として立派にその業績を維持している。
しかしながら、濱野氏に突然の転勤命令が下り、長野から台湾に行くことになるのである。2015年のことである。パナホーム台湾のCEOに就任した彼は生来の真面目さから、手を抜かず悪戦苦闘の末、巨額の累積赤字から脱却し、定年を迎えて現在に至っている。
私はその時々で多少はお手伝いをしたかもしれないが、それは微々たるもので彼の人間観察の鋭さと優しさが、独創的な経営感覚を生み出し、独自の経営スタイルを創り上げたと思う。《ビジョナリー型》《参加型》《指示命令型》をタイミングよく使い分け、その時々において《合うか合わないか》を判断基準に経営を執り行ってきた。
『ナショナル住宅建材』『ナショナル住宅産業』『パナホーム』『パナソニックホームズ』と社名が変わっていった。来年1月7日には『プライムホームテクノロジー』という会社が誕生するらしい。
私は今でも秘かに望んでいる。濵野氏が『パナソニックホームズ』の経営を担当して欲しいと。

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今回は自慢します!


2001年に上月カントリー(現ジョイックスゴルフ倶楽部上月コース)において、宿敵金子敏夫を破り、決勝では石田選手と36ホール死闘の上勝利し、クラブチャンピオンに輝いた。続いて2011年にはジョイックスゴルフ倶楽部上月コースにおいてシニアチャンピオンの栄誉によくし、今回グランドチャンピオンを取らせていただいた。
2001年の時も嬉しかったが、今回はその倍以上の感激である。準決勝、決勝と私の中では本当に苦しい展開だった。一つ間違えば勝利することは出来なかった。勝因は相手のN氏やH氏に比べてほんの少しだけ私の方がミスが少なかったのではないかと思っている。パワーでは断然私が劣っていたし、技術においてもそんなに違いは見受けられなかった。
これで私は念願だった三階級制覇をすることが出来た。本当に「嬉しい」の言葉しか見つからない。今後現れるかもしれないが、現在では当ゴルフ場においては私が最初である。
《健康》であること、そして多少《生活に余裕がある事》《あくなき研究心》がこの三階級制覇につながったと思う。
これからもゴルフをこよなく愛し楽しみたいと思っている。
先ずはすべてに感謝である。

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