久しぶりの美酒ではなく美珈琲?

私は未だにホームコースである「ジョイックスゴルフ倶楽部」と云う呼称に慣れ親しんでない。いわゆるしっくりしていないのである。
名称が変わってもうかれこれ7年位が経過しているはずなのに、馴染めないでいる。
2001年に私は当時の強敵であったK氏(3連覇中だった)に勝ち、見事倶楽部チャンピオンに輝いた。その年盛大に祝賀会を催した。その時の名称は『上月カントリー倶楽部』だった。当時のハンディは《2》。
その後ご他聞にもれず、「上月カントリー」も旧経営陣の放漫経営により、運営が危ぶまれた。私を含む4人のメンバーが供託金を積み、会社更生法を申請し、1年余り時間は要したが受け入れが決まり、4人の中の一人であったT氏が経営者として名乗りを上げ、今日に至っている。
2011年2012年とシニア倶楽部チャンピオンを二連覇したが、その頃からゴルフに迷いが生じ始め、スランプに陥っている。最大の要因は《飛距離》の低下で、それに基づいて全てが狂い始めもがいている。
7月に月例会が執り行われた。私は何年ぶりかに優勝をした。
そのグロスが76である。ハンディ7.4。ネット68.6。少しも嬉しくない優勝である。
せめてグロスが73。ハンディ4。ネット69。なら自慢できる勝利である。
しかし僅かではあるが光らしきものが見えつつあるのは感じている。
この優勝を契機として、今一度ハンディ3を目指す。
今年はインターの選手にも選ばれなかった。実力だから仕方がないが、屈辱でもある。
私は『上月カントリー倶楽部』から『ジョイックスゴルフ倶楽部』にならなければ、という想いをあらためて抱いた。

お詫びして訂正?

庭の苔  蘇りたる  梅雨しぐれ(拙作)

今年の暑中見舞いに書き添えた俳句、正確には俳句もどきである。
この句を記した余白に、相手の面影をイメージして一言付け加えて送った。
元の句は、庭の苔  ゲリラ豪雨で 蘇り  だった。
友人のH氏にメールで伺いを立てた。彼は最近俳句がめきめき上達し、句集《汀》の編集の責任者を任されている。彼の言によると、ゲリラ豪雨は季語ではなく、ゆえに申し訳ないが、これは俳句にはあたらないとのことだった。
私はすぐに上記の句をメールした。(庭の苔 蘇りたる 梅雨しぐれ)をである。
彼は一応賛同してくれたが、後日調べて連絡するとのことだった。
私はまあまあの句だと自画自賛し、その日のうちに80枚ほど書いて投函した。
その日の夜遅く彼から一通のメールが届いた。
『梅雨しぐれ』は季語ではなく、『露しぐれ』は秋の季語で、『しぐれ』は冬の季語だという。『梅雨』が使いたいのなら『送り梅雨』か『戻り梅雨』を勧める、と言うのだ。
もう後の祭りである。無知は恥ずべきことである。
お詫びして訂正します。
(居直り~梅雨しぐれは私が作った造語です~)

帝王学

今回で帝王学の講義は終わりである。
第一回目は、「貞観政要」について、二回目が「書経」について話した。今回は『韓非子』である。
韓非子の理論体系の根幹は、次の三つである。
① 性悪説  人間本性は悪であって、善なる部分は後天的な努力によって身についたものと言う説である。(性善説と並び称される考え方であるが、どちらが正しくてどちらが間違っているというものではなく、君主がどちらかの説に基づいて様々な政策を展開すればよいのであって、要はぶれない事が重要なのである。)
② 術  君主が胸の中に秘めておいて臣下を使いこなすノウハウ。韓非子が最も重要視した統治理論で、第一のポイントは権力の要の部分は握って絶対放してはならない、現代流に表現すれば人事権の掌握である。第二のポイントは、勤務評定である。現代では人事考課表の活用である。第三のポイントは、心の中を見せてはならない、と説いている。
③ 勢  人を押さえ込む力

私は元来『性善説』に立ってこれまで経営を進めてきた。今回改めて帝王学を読み、振り返ってみると、その時々において『韓非子』の唱える『術』を駆使した記憶が蘇ってくる。
企業経営は生き物である。一刻一刻変化している。その変化にどのように対応するかが、経営の本質である。
今、経営の第一線から退いてみて、今まで見えなかったことがいろいろ見えてくる。それを後世の人々に伝え、実践できるように力添えをし、成果に繋げていくのが私のこれからの使命のような気がする。
 ~中国古典に学ぶリーダーの条件~ ※守屋洋著参照

藤井社長来庵

先月㈱パナホームの社長である藤井氏が波裡庵にお見えになった。
一ヶ月ほど前に私が秘書課を通じてお誘いをしたのであるが、藤井社長から直接私に連絡があり、このたび実現の運びとなった。
私はこの春新調した、単衣の着物を着てお迎えした。
今給黎女史の案内のもと、蹲で清められた後、躙り口から入室され、亭主である私はお出迎えをし、その日は《吉野棚》でお点前をし、一服差し上げた後、一緒に戴いた。(御自服という)
茶室で2時間ほど過ごしてから、近くのお店でランチを取った。
約3時間半、余人も交えずお互い忌憚のないお話をした。
私は経営の第一線から2年前に退いた。渦中にあるときは見えなかったものが現在はよく見える。と同時に藤井社長の内面も手に取るように理解できる。
帰り際の顔の表情は、心なしか和らいでいたように感じた。少しでもこれからの企業経営にお役にたてばと、今は祈っている。

政治家登場

7月の志澤塾の講義は、初めて政治家にお願いをした。
今最も旬な兵庫県議会議員の登場である。残念ながら号泣議員の彼ではないが、普通の県議会議員『春名哲夫氏』にお話をして頂いた。
テーマは《地方分権とは?今政治に何を求めるか?》である。
春名氏と私の関係は、彼のお父さんとのご縁もあるが、約10年余り八幡建設で一緒に仕事をした仲間で、その後彼は独立し、不動産に関する総合事務所を設立し、それを契機に政治の世界に飛び込み、町会議員を4期勤めた後1期市会議員を経て、多少紆余曲折もあったが現在兵庫県議会議員として、幅広く、時には深く活躍している。
彼の話を簡単に纏めると、日本から見た関西、関西における兵庫、兵庫県の中の播磨地方の活性化を、政治と経済の両面から考慮した、地域に根ざした政策を展開していかねばならないと、熱く語ってくれた。
最も興味深い政策手法として、《特区》政策の展開である。例えば、《教育特区》《文化特区》《スポーツ特区》《食文化特区》《伝統工芸特区》等々、特区制度を大いに活用して、地方の活性化を図っていきたい、そのための協力は惜しまない、と結んだ。
彼も私も同意見だが、今後は地方の時代であり、地方分権が進まないと、日本の将来はありえない。《道州制》を出来るだけ早く取り入れ、所謂「ちいさな政府」を確立し、~地方のことは地方に~という国家を創り上げなければならない。
それの一番の早道は一極集中をなくすことで、日本なら先ず全ての機能が集中している東京から地方の大都市へ、兵庫県なら神戸の機能を分散し、播磨地方なら姫路から田舎の都市に移行していくことが大切である。
人口減少が避けられない、現在の日本の状況を打破するためにも、早急に取り組んで欲しい政治課題である。
『集団的自衛権』に現を抜かしている場合ではありませんよ!安倍さん!

6月24日の講義から

帝王学の二回目の講義は、『書経』について行った。
『書経』は儒教の原点である『五経』の一つで、古代の天子や名補佐役の言行を通じて、経営の理念が纏められている書物で、前回話した『貞観政要』が世に出る千年以上前から存在する帝王学である。その例をいくつか紹介する。
《堯と舜》最高の善政とは、支配を感じさせない支配、何一つ政策を行わない、言わば無為の政治が理想であると説いている。一方裏では、適材適所に人材を配置、組織全体の動きを正確に掌握していた。
《禹》国を治める原点は人民である。現代流に言えば社員あっての社長、つまり『ES』
《殷の湯王》トップたる者は教えを受ける師を持て、お山の大将ではなく、分からないことは人に聞け。
《伊尹》「慮らずんばなんぞ獲ん、為さずんばなんぞ成らん」は彼が残した言葉です。後世、上杉鷹山が師から贈られた「なせばなる なさねばならぬ 何事も ならぬは人の なさぬなりけり」という意味である。
《傳説》頭で理解することは簡単、実行するのが難しい、所謂『知行合一』
《武王の重臣の諫言》「人を弄べば徳を失い、物を弄べば志を失う」「百里を行くものは九十里を半ばとする」
《成王》「古典に学べ、歴史に学べ」「志と勤」
最後に『書経』の名言を書き記す。
  寛容でありながら、厳しい一面がある
  柔和でありながら、一本芯が通っている
  慎重でありながら、対応が機敏である
  有能でありながら、人を見下さない
  従順でありながら、意志が強い
  筋を通しながら、心は温かい
  大まかでありながら、原則は曲げない
  決断力に富みながら、思慮深い
  行動力がありながら、正道を踏み外さない
後半は前回から本格的に取り組んでいる《中期三ヵ年事業計画》について、それぞれのグループでディスカッションをしてもらい、その内容を発表してもらった。私のコメントを繰り返しながら徐々に熱を帯びていき、かなり時間をオーバーしその日の講義を終えた。
九月にはモデル企業の第一回目の《中期三ヵ年事業計画書》が、各グループから提出されるであろう。是非中身のある計画書に仕上げ、実践し、効果を挙げられるよう、最大の努力は惜しまない覚悟である。

因幡街道

因幡街道について調べてみた。
因幡街道とは詠んで字の如し、因幡の国、現在の鳥取県と、播磨の国兵庫県(正確には南西部)を繋ぐ街道のことで、大和朝廷の時代から利用されていた古官道のひとつである。
定説によると、姫路市青山を始点とした山陽道、つまり現在の国道2号線から、国道29号線、国道179号線、国道373号線、兵庫県道724号線にほぼ対応している。
道標からいま少し詳しく因幡街道を追ってみることにする。最初の道標は姫路市飾西に見ることが出来、宿場町としての面影を感じることが出来る。石倉を経て追分の信号を左折ししばらくゆくと嘴崎である。少し横道にそれるが、追分の信号を直進すると林田町であり、現スーパーの前や市役所の支所の前にも、風化して見えにくくなっているが道標が残っている。林田町には古くから陣屋もあり、江戸時代は随分賑わった。また三木家住宅はその時代の大庄屋であり、観光屋敷として我々も訪れることが出来る。
追分から嘴崎までの間にもいくつか道標を見ることが出来る。嘴崎は、全国一美味しい素麺の発祥の地で、大神神社、別名素麺神社が祭られており、人々の信仰を集めている。また揖保川の左岸にある、五体の磨崖仏は兵庫県下では最も古いものである。
嘴崎の宿から千本宿、三日月宿を経て平福の町に着く。平福は古くから交通の要であり、室町時代は赤松氏の拠点として、江戸初期に築かれた利神城の城下町として賑わいを見せたが、一国一条令により利神城は取り壊され、その後、昭和初期まで出雲街道、因幡街道の中心をなし、大いに繁栄した。赤茶色の土蔵と川屋敷が建ち並び、旧宿場町の佇まい今に残しており、初冬の朝霧の幽玄さにも魅せられ、観光客の絶える事はない。平福から大原(岡山)を過ぎるといよいよ因幡の国、鳥取県である。最大の宿場町、智頭宿を通り終点鳥取市に着く。
ここで司馬遼が記した『街道をゆく』に目を通すと、国道29号線における《戸倉峠》を基点として、鳥取側からを播州街道と称し、兵庫県側からを因幡街道と呼んでいると、書かれている。私もそうと思っていた。事実29号線を車で走っていると、カーナビには因幡街道と表示される。私は毎日因幡街道を走っている、と今後も思うことにする。