北京オリンピック総括

昨日北京オリンピックが終わった。日本は過去最多の18個のメダルを獲得した。その中で傑出しているのはなんといっても、スピードスケートの《高木美帆》選手である。幼い頃より天才少女として騒がれ、15歳でオリンピックにデビューしたが結果は散々だった。しかしそれから12年の月日を経て、彼女は自他ともに許す世界一のスケーターにまで成長した。その間の努力は我々ごときが遠く知るところではない。おめでとう、そしてお疲れ様と心からの賛辞を贈りたい。
歩夢君、彼はホワイトの後継者として、世界のスノーボーダーとして益々活躍するであろう。怪我にはくれぐれも気を付けて欲しい。ジャンプの小林選手も我々に感動を与えてくれた。感動と言えば女子カーリングと男子団体複合は思わずもらい泣きをした。女子団体パシュートはちょっと残念だったが銀も立派である。男女のフィギュアスケートは称賛に値する。(鍵山、宇野、坂本)羽生結弦君のフィギュアスケートに対する取り組み方は、考え方も含めて、真にスケートの神様に近づくような姿勢だと私は感じた。若い選手の活躍も目立ったオリンピックだった。例えば村瀬心椛選手は17歳。岐阜県の出身らしい、「早く帰ってたこ焼きパーティーがしたい」とインタビューで答えていた。
また疑問符が残る後味の悪い事件も目立った。特にロシアの女子フィギュアのワリエワドーピング問題。彼女を出場させるべきではなかった。なんといっても15歳。数々のプレッシャーに押しつぶされてしまった。ウクライナで今にも衝突が起こりそうな国ロシア。国上げてのドーピング疑惑。国の体質は当分変わりそうにもない。ジャンプ特に団体混合ジャンプにおけるスーツ違反。それも有力国の選手を抜き打ちするような検査は多くの疑惑を残したままである。またスピードスケートにおけるフライングはどこが?と言いたくなった。
4年後はイタリアミラノで行われるそうである。寒さに弱い私は、観戦に行こうとは思わないが、それまでの早い時期にミラノを訪れたいと思っている。イタリアは過去に行ったが、なぜかミラノだけ足を運んでいない。
《最後の晩餐》をこの目で確かめたいからである。
とにかく冬季オリンピックは閉幕した。テレビはまた低俗なバラエティーとCMだらけになる。その分読書する時間が増えると思うことにしよう。

吉田拓郎と宇宙観

私が宇宙と言う概念に興味を持ち始めたのは27歳ごろだったと記憶している。そのころに確立したのが《めぐりあいの哲学》で、その経緯については時々に詳しく記しているので今回は省略する。
前園氏が最近宇宙ステーションに行ったニュースが流れて、マスコミも取り上げかなりの反響を呼び起こした。私は思う。何のために莫大なお金を使って宇宙旅行をしたのか、全く理解に苦しむ。大気圏外に行ったことは認めるが、あの程度の事で宇宙が分かったとは思ってほしくない。宇宙とは永遠に謎であり分からなくていいのである。小さな人間では到底計り知れないのである。ましてや、前園氏のように自分の夢が実現したと、喜んでいるのは滑稽で仕方がない。そんな無駄なお金があるなら、世のため人のために使ってほしい。自己満足でしかありえない、と思う私の方が間違っているのだろうか?彼は無邪気な何の思考もない子供ちゃんである。
前に中島みゆきのことを記した。私は吉田拓郎のCDも持っている。その中の一曲にこんな詩がある。~いつか滅びるこの海も~
彼の宇宙観に私は愕然とした。形あるものは必ず滅びる。海だって同じだと言っているのである。無常なのである。そしてもう一曲~今日まで恨んだり泣いたり喜んだりしながら生きてきた、そして明日からも同じように生きているだろう~というくだりである。
彼の達観した生き方に私は共鳴せざるを得ない。欲しいものは駄々っ子のようにしかも無尽蔵に金銭を使い、手に入れて喜んでいる者とは比べようもない。
私は拓郎のような生き方をしたいと願っている。

もう一人の友人・杉山君の場合

杉山君と言えば一番に思い出すのは、なんといっても大学の文化祭での催し物の一つで執り行われた、50キロナイトラリーに二人で出場した事である。夜の八時に大学の中庭を出発し、次の日の午前八時までに帰って来なければならないという競技である。口の悪い友人、特に小池には散々馬鹿にされ、そんな無駄な事止めろと言われた。我々二人は何一つ予備知識がないまま意気揚々とスタートした。途中何カ所かのチェックポイントを通過し、20キロ近くまでは小走り状態で進んだ。25キロ時点に、華道部(私は華道部に籍を置いていた)一番の知的美人『江橋珠子』女史が、「香山君、25キロ地点は私の自宅の近所だから差し入れするね」と言ってくれていた。その言葉通り珠子女史は待っていて、私たちにおにぎりとお茶を手渡し、
『頑張ってね』と激励してくれた。
しかしながら35キロを過ぎ、40キロあたりまで来る頃にはほとんど疲れ果て、歩いているのか止まっているのか分からない状態だった。救護の車が来た時には、《どうしよう》二人で見つめ合ったりしたが、とにかく完走しようと話し合い、最後の5キロは半分意識のないまま二人肩を組み合って、《いち、にい、いち、にい》と声をかけながら、倒れるようにしてゴールにたどり着いた。午前6時頃だった。何とかセーフである。
もう一つの思い出としては、大学4年の夏休みを利用して、三人で、いわゆる卒業旅行に北海道へ旅したことである。せっかちな小池と、ちょっと動作の遅い杉山との間に入り、私はしばしば戸惑ったことを覚えている。
杉山は歯科医の息子である。それなのになぜ中央大学の法学部に来たのは未だに謎である。彼も小池同様に私に「麻雀を教えろ」と言ってやってきたのがきっかけで今日まで細々と付き合いが続いている一人である。彼は我々(小池と香山)の忠告を無視し、卒業しても何年かは司法試験の勉強をしていたが限界と悟ったのか、一念発起して大学の歯学部に入学して、かなり遠回りして歯科医になった。
私と小池はかなり頻繁に連絡を取り合っているから、おおよその近況は認識しているが、杉山とは何年も音信普通だった。それでも私は年賀状と暑中見舞いだけは送り続けていた。ここ二、三年前に彼から手紙が来た。それによると、伊豆の下田(彼の出身地)で歯科医をしながら、週末には家族のいる東京に戻っている。10年以上前には体調を崩したらしいが、今は普通に生活しているとのこと。先日、私の拙著〈或る二世経営者の挑戦〉を送付したところ礼状が届いた。
そのことを小池に話したところ、クールな小池にしては珍しく「香山、少し落ち着いたら三人で飯でも食べようぜ」と言ってきた。断る理由はないので、快く同意した。その時が訪れるのを楽しみにしている。

PCR検査

この間生涯3回目のPCR検査を受けた。それを機会にそもそもPCR検査とは何かについて調べてみた。
P→Polymerase、C→chain、R→reactionの略で、ポリメラーゼ連鎖反応と言うらしい。その意味は、DNAサンプルの特定領域を数百万~数十億倍に増幅させる反応または技術。私には何が何だか全く理解できない領域である。
最初にPCR検査を受けたのはコロナの発症初期のころ、いわゆる志村けんが亡くなったというニュースが流れた後に、微熱が2~3日続いたのでかかりつけの医師に相談したところ、地元の保健所に何回もかけあってくれて、総合病院に行き検査を受けた。検査結果は保健所から本人宛に連絡するとのことだった。その日にちは3日くらい要すると言われた。自宅に籠りながら女房と別居しながら待った。その時間の長かったこと。結果は陰性だった。
二回目はその年の秋、次男の結婚披露宴の日が近づいて来たころ、少しだけ熱が出たのでまたかかりつけの医師に相談すると、直ぐに手配してくれて、その日の午後に検査を受け、2時間後には検査結果を聞くことが出来た。勿論陰性だった。
三回目は熱こそないがどうもすっきりしないという相談を、かかりつけの医師に相談したところ、全く心配ないから、と言われたので安心してその夜は地元のすし屋に行き、軽口を叩きながら帰宅した。しかしながらその夜中に、身体が熱くなり熱を測ったところ、38度近くあった。次の日は運悪く日曜日だったので困り果て、新聞でその日の当番医を調べると、前日にかかりつけの医師に教えてもらっていた、宍粟市でPCR検査ができる医院が、その当番医だった。早速電話し予約をすると4番目ですから来院して駐車場で待っていてください、と言われた。待っていると医者が看護師と共にやってきて、抗原検査とPCR検査を車の窓越しに行い、抗原検査の結果はすぐに分かりますのでまた連絡しますと言って、病院内に入って行った。30分もしないうちに電話がかかってきて、院内に来るように指示があった。行くと抗原検査の結果は陰性でしたと言い、聴診器を当てたりしながらレントゲンも撮るという。レントゲンを見てみると、確かに薄く影のようなものが見受けられた。肺が少々炎症を起こしているとの見方だった。点滴を打ち、抗生物質も含めた薬を何種類か処方していただき自宅で安静にして2日ほど過ごした。PCR検査結果は翌日の昼頃判明し、勿論陰性だった。
コロナはまだまだ終息の気配すら見えないが、世界史上パンデミックが落ち着くのに4~5年を要すると言われている。そうすると後2年くらいはかかりそうだ。以前のシステムと比べると検査機構も随分簡略されたがもっと手軽に受けられるようになり、治療薬も簡単に手に入るようにならなければならない。一日も早く、インフルエンザのような状態になって欲しいと願っている。