春爛漫

今年もハナミズキがきれいだ。
私はハナミズキの花自体も好きだが、ハナミズキと言う言葉の響きが大好きなのである。
年初来から、殊の外寒さが厳しかったが、急に暖かくなりその反動かどうかは分からないが、ハナミズキだけでなくその他の花々も、例年よりも早く咲き始めたように感じる。
~躑躅・山藤・レンギョウ・さつき・雪柳等々~
今年は我が故郷の《千年藤》も鮮やかに咲いていると聞き、3年ぶりに訪れてみた。
国の内外は、なかなか終息の見えないコロナ禍・泥沼化したウクライナ戦争。
それでも自然界はすべてを吞み込んで、留まることなく進んで行く。

清元市長ポストコロナを語る

志澤塾を開講して10年が経過した。それを記念して、11年目の最初の講座は、現姫路市長である清元氏にお願いをしたところ、快諾を賜り今回の運びとなった。
氏は地元の姫路西高等学校を卒業後、香川大学医学部に進まれ医学博士を取得され、アメリカテキサス大学において研究を重ねられ、東北大学医学部教授として活躍される。その時に東日本大震災を経験され、命の尊さを実感されたのである。その後政府機関日本医療研究開発機構に調査役として所属される。
地元である姫路市民に請われ、平成31年市長選で勝利をおさめ、姫路市長に就任される。座右の銘は《至誠惻怛》。幕末の儒学者山田方谷の言葉で、まごころといたみ悲しむ心があれば、すべてやさしくなれるという意味。

就任当時、口の悪い連中は、医者に市長が務まるのか、などと言う者もいたが、3年経った今は、誰一人そんなことをいう人物は見当たらない。姫路市民53万人の命と財産を守るという気概の元、行政に一心に取り組まれ、特に専門分野でもある医療の立場から、コロナ対策もいち早く取られた。新しくなった《アクリエ》《県立医療センター》の活用により、市民にゆとりと安心感を与え、姫路市にある大学に医療人材不足を補うという意味において、医学部設置の構想もあり人材の育成を図られている。また文化面では官兵衛に続き、大河ドラマとして《千姫》を誘致する計画もあるとのこと。播磨臨海都市構想を推し進め、道路網の整備も任期中には実現したいと話された。
とにかく分かりやすく我々に春の陽光のような「明るい姫路」の未来像を指し示していただいた。

太郎・お宮参りをする

昨年11月16日に太郎はこの世に生を受けた。太郎と言う名前は義娘が身籠った時にはすでに決まっていた。と言うのは、私が男の子なら《太郎》女の子なら《華》と言う名前を推奨していたので、性別が判明した時点で《太郎》と命名されたのである。太郎と言う名に関しては、家内は消極的に反対していたが、義娘の実家はもろ手を挙げて賛同したのも手伝って、最終的には次男が判断をした。
お宮参りは通常生後100日らしいが、今年の冬は殊の外寒さが厳しかったので、暖かい日を選び4月の桜満開の中で執り行った。私の地元の氏神様である「石作神社」に宮司さんをお呼びして、私と家内・次男夫婦・義娘の母親・そして主役の太郎の6人が参列した。
丁寧な祝詞に引き続き、太郎と両家の無事健康と安寧を祈願して頂いた。お宮参りの独特の衣装を着せられた太郎は愚図ることもなく、厳粛の内にお宮参りを終えることが出来た。そのあと直会の意味も含めて、地元のレストランで食事を取った。
太郎が成人になった姿をとても見ることが出来ない、などと春の陽光の中、多少の寂しさを感じる一日でもあった。

令和4年入社式

令和4年の入社式は、3年ぶりに全グループの社員全員が一同に会し、、新しくなったコンベンションホール《アクリエ姫路》で執り行った。アクリエとは造語で、アークすなわち《架け橋》とクリエーションすなわち《創造》を掛け合わせて、未来へと続く新しい創造の架け橋、という願いを込めているのだそうだ。
今年度はグループ合わせて9名の新人が入社してきた。私は例年のごとく「司馬遼太郎」が我々に残したメッセージである《21世紀に生きる君たちへ》を朗読し、歓迎の意を表した。
      
最後に、新入社員も含めたすべての社員に対して、高杉晋作の《面白きこともなき世を面白く住なすものは心なりけり》を引用し、仕事とは?生きるとは?そんなに楽しい事ではない、7~8割までが苦しくてしんどいものだ、後の2~3割の喜びを求めて生きているのだ、心が決めるのである、どうかバイト感覚で仕事をとらえないでください、と話した。そして勝利集団にならなければならない。《和して勝つ》のではなく《勝って和す》のである。とも説いた。私の今の唯一の願いは、どの各企業も生成発展することである。そのためには多少の冷徹さも理解してほしい。
我々の集団に所属するすべての社員の笑顔を一日も早く見たいものである。

届いたお花

先日帰宅すると家内が
「お父さん、この花見て」と言うので目を遣ると、立派なお花が届いていた。
子供達からである。よく見ると我々夫婦の結婚50周年のお祝いだそうである。
世の夫婦は結婚50年と言えば《金婚式》であり、何かしらの行事を行い、お祝いするのが通常である。しかしながら、《アニバーサリー》に関心のない私たち夫婦はすっかり忘却の彼方だった。家内もそうだが、私も子供たちに記念のお花を贈られて初めて、「そうだった」と認識した次第である。
そういえば、数年前に我々の会話の中で
「もうすぐ金婚式やで、市に届けて、市のお祝いの行事に参加するか?」と話した結果、止めようと言う結論になったことを思い出した。金婚式に留まらず、ほとんどのアニバーサリー行わない人生が今後も続いていくだろう。

親愛なる杉山へ

先日は会えて嬉しかった。
君の結婚式以来、40数年ぶりとはお互い不義理をしていたものだ。しかし僕は違和感はなかった。一分で中央大学時代に戻った。
狂ったように麻雀に明け暮れていた、あの頃。
僕はあの日にも言ったように、タイムマシンで過去に遡るときは、ノンストップで学生生活に着地する。僕の場合は、大学卒業してからは、一貫して仕事をし続けたから、ずっと延長戦みたいなものであった。
やはり一番の思い出は、なんといっても50キロナイトラリーだった。あの出来事は僕は一生忘れないだろう。50年以上経過した今も鮮明に覚えている。君と肩組み合ってゴールし、倒れてしまい少しの間動くことも出来なかった。やはり人間は苦しみが伴う達成感はいつまでも残り続けるものだ。
ただ一つ気になったことがある。下田から東京まで、200キロ近くある車での移動である。君は仕方がないと言うが本当に何とかならないのか。夜、雨の日もあるだろうし、時には雪も降るだろう。僕たちのためにも君の家族のためにも考慮してほしい。お願いだ。
帰り小池とも話したが、次は名古屋辺りでどうかと?
せめて一年に一度くらい会いたいものだ。
                                    香 山