歴史シリーズ~利休の巻~

『夏は涼しく、冬は暖かに』利休が残した茶の湯に関する訓えのひとつである。
利休は堺の商人の子として生まれたが、父親を若くして亡くしてからはその後を継ぎ、商売にも精を出し成功を収める。武野紹鷗に師事し、茶の湯の世界でめきめき頭角を表し、織田信長に見出され、今井宗久、津田宗及ら共に信長の茶頭として仕える。信長が本能寺で倒れた後、秀吉の茶頭として召抱えられ、北野大茶会などをプロデュースし名声を広げ、茶の湯のみならず各分野に影響力を持つようになる。
利休は紹鷗から受け継いで侘び茶を追及し、茶の湯の世界において数々の改革を試みた。例えば、従来の唐物茶碗から楽焼に代表される和物に、茶室も4畳半から2畳の茶室(有名な国宝待庵)を造ったり、茶花も真の花から草の花、つまりたてはなからなげいれを用いた。
利休は秀吉の命により切腹するのであるが、その理由ついては明らかになっていない。いくつか理由を列挙してみると、①大徳寺三門の改修のおり二階に利休の木像を設置しその下を秀吉に潜らせた②安価な茶器類を利休の目利きで私腹を肥やした③茶道の考え方の違い(二畳の茶室と黄金の茶室)④秀吉が利休の娘を側室にと言う申し出を断った⑤朝鮮出兵を批判した等々。が、いずれも定かではない。堺に蟄居させられたのち、多くの弟子や大名たちの双方への取り成しも空しく、京に呼び戻されそこで切腹する。その首は一条戻橋に晒されたのである。宗旦の時代を経て、武者小路千家官休庵、表千家不審庵、裏千家今日庵の三千家に分かれ今に至っている。大徳寺の木像は今日庵に現存している。
私はお茶の世界と接するようになってから8年余りになる。6年間は本格的に習ったが、極めることは不可能と悟り今は嗜んでいる。塾の空地部分にお茶室を増築し、名前を《波裡庵》と命名し、月に1~2回お茶と戯れ、年に3回ほど波裡庵流お茶会を催している。1月の初釜(グループ社員が対象)5月の野点(塾生と講師と私の関係者が対象)11月の炉開き(野点と対象者は同じ)。真剣にお茶を志している人に申し訳ないが、楽しませていただいている。最後に利休居士の言葉を記す。
    茶の湯とはただ湯をわかし
       茶を点てて
  のむばかりなることと知るべし

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